平凡パンダ

百合/百合作品を様々な角度から論じたり、突然まったく関係ないことを宣ったりするブログ

『スタァライト』を見ました

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ネタバレあり ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

 

 

 

 『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』を見てきた。素晴らしかった。

 なにより、ひとつの物語としてしっかりと「終わり」を描いていたことが素晴らしかった。

 終わらせ方も素晴らしかった。

 ほんとうに、とにかく素晴らしかった。

 

 ゼロ年代以降のアニメ作品は、少女同士の関係性を、大きく分けて二つのアプローチから描いてきたように思う。

 ひとつは、セカイ系作品に見られるように、主人公とヒロインを「セカイ」の大きな対比において描くことで、「究極の二対」として二人の関係性を描くやり方。百合関係でいえば、『少女革命ウテナ』や『魔法少女まどか☆マギカ』がこのアプローチを採用している。例に挙げたのが上記の二作品であることからもわかるように、セカイ系や戦闘少女における百合的関係性は、往々にして「悲劇」のカタチをとって終わる傾向にある。

 もうひとつのアプローチは、多くの日常系作品に見られるような描き方である。これらの作品は、上述したセカイ系のやり方とは対照的に、ふたりの関係性に悲劇的な「終わり」を描かくことなく、むしろ「終わり」ひいては「時の流れ」およびそれに付随する「苦しみ」を避け続ける傾向にある。その結果として、日常系で描かれる関係性はいくら巻数が進んでもまったく同質なまま、エンドレスに繰り返され続けていく。

 セカイ系における「百合」は、悲劇的な結末を迎える。

 日常系における「百合」は、悲劇を経験しないかわりに、進展も結末もなく、ただ同質な関係性が続けられていく。

 

 『少女☆歌劇レヴュースタァライト』には、これら二つの作品群(セカイ系と日常系)への明確な言及が、テレビアニメ時代からある。

 戯曲「スタァライト」が悲劇であり、舞台少女たちはその運命から逃れることはできない、といった言説は、まさにセカイ系が描いてきた少女同士の悲劇的な末路そのものである。そもそも、舞台少女たちが物理的に戦うのも、この作品が「戦闘少女」作品であることの表現だ。

 また、このアニメにおける大場ななという存在は、まさに日常系というジャンルそのものを象徴していると言える。「終わることの苦しさからみんなを守る」という大場ななの行動理由は、まさに、セカイ系の悲劇的な結末に疲れ、終わる事の無いまったく同質な物語へと逃避したゼロ年代のオタクのメンタリティそのものである。

 

 では、セカイ系と日常系に代表されるゼロ年代のアニメ史のなかで、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はどのように関係性を描いたのだろうか。

 スタァライトが採ったのは  悲劇的な結末の「その後」を描くことによって、新しい関係性を、ひいては物語を「再生産」するという方法である。

 

 本作の劇場版では、大雑把に言って「ふたかお」「じゅんななな」「真矢クロ」「かれひか」の三つの異なる関係性が描かれているが、しかし、いずれも、構造的にほとんど同じアプローチによって描かれている。

 それは、テレビアニメ版を通して構築されてきた二人の関係性を、いったん不可逆的に破綻させ、「清算」したあとで、しかしもう一度、ふたりのまったく新しい関係性を「再生産」する、というやり方ではないだろうか。

 

 「ふたかお」は、「双葉が香子を待つ」というテレビアニメ版の関係性を破綻させ、「香子が双葉を待つ」という新しい関係性を創り上げた。

 「真矢クロ」は、「追いかけるクロディーヌと追われる真矢」という関係性を打破し、はじめて同じ地平に立つことができた。

 星見純那は、「ずっと自分たちを見守り続けてきた」大場ななが望む舞台を拒絶し、大場ななは、星見純那への執着を克服した。しかし二人はそこで決別する(悲劇を迎える)ことなく、また再会することを誓うというかたちで、新たな関係性を創り上げた。

 

 『レヴュースタァライト』は、戦闘少女というセカイ系のモチーフを使って究極の二対としての少女同士の関係性を描きながら、しかしセカイ系のように悲劇的な結末を迎えるのでもなく、かといって日常系のように同質な関係性を無限にループさせるのでもなく、しっかりと関係性を「清算」させたうえで、もう一度新たな関係性を「再生産」する。

 舞台は、物語は、関係性は、いつか終わる。卒業という明確な区切りによって終わらされる。どうしようもなく破綻を迎えてしまう。しかし、ふたりの関係性はそこで終わるわけではない。破綻を迎え崩壊した瓦礫のなかからピースを拾い集めて、もう一度新しい関係性を「再生産」する。

 

 セカイ系は「終わる」。日常系は「終わらない」。

 しかし『スタァライト』が提示したのは、終わり、終わらない物語なのだ。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観た感想。

 ※本稿は重大なネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 最近はNETFLIXで『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観ていました。普段、テレビアニメは一日二日くらいでバーッと一気見することが多いのですが、本作に限っては一話一話ごとの密度が非常に高く、こちらの気持ちを整理するのにも逐一時間が必要で結局、全話+OVAを視聴するのに一週間もかかってしまいました。やはりテレビアニメはリアルタイムに限る......のかもしれません。

 そして今日、109CINEMASで劇場版も拝観。本編は上映時間が2時間を超える大作でしたが、退屈だったり集中力が切れたりするような瞬間はほとんどなく、最後までわりと元気な状態で作品に臨めました。

 本稿はそんな一週間の感想をつらつらと書き連ねた記事です。久々にこのブログを動かそうと思ったのは、きっと僕自身、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の影響を少なからず受けているからなのでしょう。届いちゃいけない手紙なんて無いんです。.......これは手紙ではありませんが。

 とにかく、酸いも甘いも記憶をたどりながら、想いをすくいあげていく所存でございます。お暇な方はどうぞ最後までお付き合いください。

 

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、石立太一監督・京都アニメーション制作のテレビアニメ。

 「兵器」として育てられた少女・ヴァイオレットが、大戦後に自動手記人形・ドールとして働きはじめ、人の心を学び、すくいあげ、言葉を紡ぎ人を結んでいく過程で、「兵器」としての過去や、未だ帰らぬギルベルト少佐の残した「愛してる」という言葉、そして自分の心に確かに存在する、彼に対する想いへと向き合っていく......そんなストーリーの作品です。

 軍隊の外を知らないヴァイオレットが、人の心に去来する様々な感情の存在を知りーーーそして知っていく過程で、自らの犯した過ちに気付く。作中の人物から表現を借りれば、自分の体が燃え上がっているのに気づく。

 ヴァイオレットがはじめて自分の体に残る「火傷」の存在に気付く第7話、そして、兵器・ヴァイオレットとしての過去と、ドール・ヴァイオレット・エヴァーガーデンとしての新たな人生を受け入れる第9話は、中盤のクライマックスであると言えるでしょう。

 

 ......この設定が出てきた時点で、すでに名作の誕生はほぼ保証されているようにも思えます。あとはちゃんとした制作陣が付けば......なんて、言うまでもないでしょう。そこは京アニです。

 さらに、本作はアニメーションの美しさはもちろんのこと、表現の面でも非常に完成度の高いものに仕上がっています。

 特に注目すべきは、仕草やさりげないカットで心の機微を表現する、京アニお得意の繊細で緻密な表現。これは、同じく石立監督の作品である『響け!ユーフォニアム』シリーズでも頻繁に見られる傾向ですね。「感情は手に宿る」「瞳に宿る」「顔に宿る」などとよく言いますが、京都アニメーションの作品を観ていると、画面に映るものすべてにその場の心情が宿っているような......そういう、圧倒的な映像美を感じます。

 加えて(これはアニメの表現というわけではありませんが)、本作の対話はよく「自己との対話」と重ね合わせとして表現されます。机越しのヴァイオレットに話しかけているように見せて、視線は窓ガラスに映りこんだ自分の像を見つめていたり。あるいは、投げつけた疑問を思わぬ形でヴァイオレットから返され、自分の中にある「素直な感情」にはっと気づかされたり。対話とは常に自己との対話なのだ、ということを改めて印象づけられます。

 

 

 話数を重ねるにつれ「成長」していくヴァイオレットの姿も、この作品の見どころの一つです。

 ドールとしての手腕は、ルクリア編の第3話からアイリス編の第4話にかけて著しい成長を見せたように思います。実際、アイリスの依頼で書いた手紙はそれ以前のものと違ってちゃんと「手紙」として成立したものになっていますしね。

 さらにドールとしての知名度も、第5話で公開恋文の依頼を受けてから急上昇。大仕事にまだ新人のヴァイオレットを送り出した背景には、確かな手腕に対する社内での評価もあったのでしょう。ところでこの話ではご存じの通り途中からヴァイオレットは代筆することなくシャーロット姫が直筆で恋文を交わすことになるのですが、個人的な妄想で「臣下は気が気じゃないだろうなぁ......」とか思ったりしてました。恋文の返答次第で市場が影響を受け、王子からの返答が芳しくないときには株価が大暴落してしまったり、とか......胃痛が......。

 さらに第5話でははじめてヴァイオレットが笑顔を見せます。前述したドールとしての成長ではなく、彼女の人間としての成長過程も丹念に描かれています。第10話でもはじめてヴァイオレットが「人の感情に共感して」泣く姿を見せたりしてますしね。

 そういった「成長過程を描く」という面から見ると、個々のエピソードはその一話一話が必要不可欠なものに思えてきます。たった13話でこれだけ密度のある物語を描けてしまうのは、さすが京アニというより他ありませんね。

 

 さて、アニメ版の感想はこれぐらいでしょうか。

 ところどころ文章のカタチを為していないようにも思えますが、どうかご愛敬。

 

 本筋とはずれますが、一番好きなキャラクターはバイオレットで、その次に好きなのはディートフリート大佐だったりします。

 「生きて生きて生きて、それから死ね!」「お前を麻袋に入れてヴァイオレットの前に放り出したい気分だ!」など、いちいち言い回しがカッコいい。滲み出るひねくれた感じも好きですし、ひねくれた自分をあまり嫌悪せず堂々としているところも好きです。

 あと気になったのはヴァイオレットの年齢でしょうか。第5話、シャーロット姫と庭園での会話で「14歳くらい」という発言がありますね。

 初見でかなりびっくりしたのを覚えています。

 だって、ねぇ......14歳には見えないでしょ......ふつうは......?

 作中でもたびたび、ヴァイオレットを目にしたキャラが心を奪われるような描写が登場しますが......14歳......。

 ひょっとすると、精神面での成長に対比させて、身体面での成長はストップさせているのかもしれません。身体=兵器で、精神=ドールのような......?わかりません。適当言ってます。

 

 来ました。外伝です。「エイミー」の衝撃。先回りしちゃうけど、映画としては『劇場版~』の方よりこっちの外伝の方が僕は好きです。

 実は、これがはじめて『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に触れた作品だったりします。確か、去年の8月に京都旅行に行った時ですかね。MOVIX京都で京アニ特集的なことをやってて、その時に「原作知らないけどまぁ見るか」のノリで観た記憶があります。

 たいていのアニメ映画は、テレビ版を知らなくてもある程度その内容が類推できるようになってるんですよ。『リズと青い鳥』で学びました。

 最後に観たのが結構前になっちゃうので、とりあえず感想は書かないでおきます。

 

 「衝撃」という点では外伝に勝るかもしれません。結論から言えば、僕はこの映画をあまり好きではありません。

 まさかのギルベルト少佐が生きてた展開。正直、すこし「えぇ?」とはなっちゃいました。少佐の生死については最後まで語らないまま通すのかな、と思っていたので。

 さらに本作は結構入り組んだ構造になっていて、第10話登場のアンの孫娘による一人旅、余命いくばくもない少年からの代筆依頼、ギルベルト少佐の捜索と、3つのイベントが同時に進行していく構造になっています。

 ヴァイオレットが仕事を中断してホッジンズと島へ向かう時は「これどうやってまとめるんだろう?」と疑問に思っていましたが、ここで冒頭に用意していた「電話」という伏線が発動するわけですね。移り行く時代の流れを感じさせつつ、その中にあって変わらない「伝えたい想い」をくみとるような......そんな綺麗なまとめ方になっていると思います。

 

 そう。物語の構造や展開については、僕は特別文句を言うことはありません。

 というかそもそも、この映画自体に文句「は」ありません。ただ、好きではないというだけなのです。この記事のタイトルを「感想」にしたのはそのためです。批評や評論をしたいのではない。

 ではどこがいったい好きではないのか。

 

 それはーーーものすごく単純な理由なのですが、ギルベルト少佐が僕は好きになれません。

 本当に、ただそれだけです。

 彼もまた戦争の災禍の犠牲者であり、ヴァイオレットに対して抱えている罪悪感が理不尽なものであることについては理解しているのですが、どうしても彼の性格や言動が自分勝手で我儘なように見えて仕方がないのです。

 「君をみると君を武器として育て、使ってしまった自分を思い出す」「あのときヴァイオレットを引き取るべきじゃなかった」といった発言は、ヴァイオレットの存在そのものを否定されているようで気持ちのよいものではないですし、最後の「あいしてる」のシーンでも、なにかいちいちヴァイオレットに同意を求めたり、要求をしたりしているところも好きになれません。

 思えばアニメ版から、ギルベルト少佐の言動を僕はあまり理解できずにいました。

 今ならわかります。たぶん、僕はギルベルトのような人があまり好きではない。自分で責任を背負い込んでおきながら、あとになってそれを人に押し付けて、自分は孤島で細々と隠遁した気でいるようなふるまいを、僕はあまり共感できないのでしょう。

 『劇場版~』を好きになれない理由は、そこに尽きると思います。

 ヴァイオレットがギルベルトと結ばれたことは喜ばしいのですが、ギルベルトがヴァイオレットと結ばれたことは、純粋に喜べない自分がいるのです。

 

 ......余談ですが、アンの孫娘がCH郵便社の記念館に行くシーンで、こっそりエイミーの写真が写り込んでましたね。見たときかなり感動しました。

 

  • おわりに

 なんだか散り散りでみっともない文章になってしまいましたが、深夜テンションなので仕方ないですね。

 それと、劇場版は夜8時からの回を観てきて、帰ってからすぐこの記事を書き始めたので、『劇場版~』についてはあまり濃い内容を書けていないかもしれません。

 

 久々にブログを動かしてみたのですが、やっぱりこういう、衝動的に記事を書いていく方が自分には合っているような気がします。

 計画的に書いちゃうと、どうしても細部がきになってしまってまったく原稿が進まないし、そのくせあとになってよく読み返してみると、細部までこだわった割には完成度は低かったりするし。だいたいのことは勢いで解決します。

 そんなわけで、また気が向いたら感想なりなんなり書いていこうと思います。

 最後までお付き合いいただきありがとうございました~。

「棋士と女流棋士の違い」について10分で語る。

(注意) 

 書いている人の棋力はアマチュア四段くらいで将棋歴はだいたい5年くらいです。また、あくまで「10分でわかる」という縛りで書いているので、とこどころ詳細をぼかして書いています。あらかじめご理解ください。 

 (棋士女流棋士の肩書はいずれも2020年07月07日現在のものです。)

 

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